大化の改新で蘇我入鹿が倒された理由。蘇我氏の権力と、中大兄皇子が目指した国づくり。

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今回は、飛鳥時代の645年の大化の改新について、なぜ、蘇我入鹿が倒されたのかを説明します。

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大化の改新で、蘇我入鹿が倒された理由。蘇我氏の権力が天皇を揺るがすほどに大きくなっていた。

飛鳥時代の645年に中大兄皇子と、中臣鎌足が蘇我入鹿を倒したことから、大化の改新は始まりました。

そもそも、なぜ、蘇我氏、蘇我入鹿が倒されたかというと、飛鳥時代の前期は、聖徳太子による天皇中心の国家になっていた飛鳥時代ですが、

聖徳太子が亡くなってからは、蘇我氏が権力を持つようになり、この頃には、政治的に、天皇を揺るがすほどに、蘇我氏の権力は大きくなっていました。

そして、中大兄皇子はいずれ天皇になる存在であり、実際にのちに天智天皇となります。

中大兄皇子と中臣鎌足は、中国の唐のような法律がある、天皇中心の国を願った。

天皇をおびやかすほど大きくなっていた、蘇我氏の権力。

そして、次期天皇である中大兄皇子と、中臣鎌足は、中国のその時代の唐のような、天皇中心であり、法律のある国を目指していました。

なので、蘇我氏を、中大兄皇子と、中臣鎌足で倒します。

実際に、天皇中心の、法律のある国を、のちの大宝律令で作り上げて、大化の改新は完成する。

中大兄皇子は、645年に蘇我氏を倒した翌年の、646年に、目指す国の方針をまとめて公表をしました。その内容がこれです。

地方の豪族が治めていた土地を公地公民で天皇に返し、班田収授法なども含まれています。

そして、天皇が土地と国民を保有して、天皇中心の国家になります。

蘇我氏を倒して、天皇中心の国家を作る。これが、大化の改新の内容でした。

大宝律令の完成に、中大兄皇子は間に合わなかった。

大化の改新は、蘇我氏を倒して、天皇中心の法律のある国を作り上げることが目的でした。

実際に、645年に蘇我氏を倒し、

646年に、公地公民などの、方針を示した中大兄皇子ですが、

これらは当時にしては、非常に新しいことが多く、法律の準備に50年を要することになりました。

中大兄皇子は、天智天皇として、飛鳥時代の668年から671年に在位しますが、その間に、これらを成し遂げるための法律は完成せず、

法律として完成したのは、飛鳥時代末期の701年

701年に、飛鳥時代の大宝律令として、完成します。

天智天皇の死後ではありますが、これによって、大化の改新は成し遂げられました。

そして、大宝律令ができたのは、701年。

奈良時代は平城京に住むことになった710年から始まるので、大宝律令は、奈良時代にも続く法律になりました。

歴史解説
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