今回は、大化の改新について、小学生、中学生の歴史向けに説明します。
大化の改新の簡単説明、起きた年号、登場人物、大化の改新の国づくり、大化の改新と大宝律令についてを説明します。
大化の改新の登場人物。中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我氏。蘇我氏が倒された理由。
まず、大化の改新は、蘇我氏を倒すことから始まります。

蘇我氏を倒した理由は、蘇我氏が、
飛鳥時代の初期は、聖徳太子が天皇中心の国を作っていたので、飛鳥時代の初期は天皇中心の国になっていたのですが、
聖徳太子の死後は、蘇我氏が、天皇をゆるがすほどに大きな権力を持ち、そして、傲慢な、自分勝手な政治を行なっていたからです。
そして、中大兄皇子と、中臣鎌足によって、蘇我氏が倒されました。
なので、大化の改新の中心人物は、中大兄皇子と中臣鎌足、そして、倒された蘇我氏になります。
大化の改新が起きた時代と、簡単な内容、流れを説明。
次に、大化の改新の内容を説明します。大化の改新は、蘇我氏を倒しただけでは終わりません。


大化の改新は、飛鳥時代の645年に、天皇よりも力を持ってしまった蘇我氏を倒して、また、天皇中心の国ににすることが大化の改新の簡単な内容です。
天皇中心の国であり、国の役人、地方にいる国の役人も天皇に従うことで、天皇中心の、中央集権国家ができあがります。
天皇中心の国のために豪族から土地を天皇に返す。公地公民などのすることを、646年に宣言。
中大兄皇子は、のちに天智天皇という天皇になります。
そして、645年に蘇我氏を倒した次のとし、646年に、天皇中心の国にすること、そのためにすることを宣言します。それがこれらでした。


公地公民、班田収授法、国郡制度、租庸調の税制を整えることで、天皇中心であり、天皇中心の国家が整えられやすい環境になります。
公地公民は、土地、国民を、地方の豪族から天皇に返すこと。
班田収授法は、農地は天皇が国民に貸している、ということで、死んだら、天皇に返すこと。
国郡制度は、国を国と郡に分けて、そして、天皇に従う役人を置くこと。
租庸調の税制は、米、布、労働などの国民の義務ともいう税をはっきりと整えること。
これらを達成して、大化の改新の目的は達成されることになりました。
701年に大宝律令ができ、班田収授法、租庸調なども完成される。
公地公民、班田収授法を行うには法整備が必要で、大化の改新が645年にあり、方針を646年に示したものの、それらを実施するための法律である大宝律令は、そこから50年後の701年になりました。

しかしながら、日本初の国民も守る法律である大宝律令ができたことで、大化の改新の目的であった天皇中心の中央集権国家が完成することになります。

701年の大宝律令には、公地公民、班田収授などが全て内容になりました。
大宝律令は飛鳥時代だけでなく、奈良時代にも基本の法律になった。
大宝律令ですが、できた年は701年でした。
大宝律令ができた年は、飛鳥時代だったものの、710年に平城京が奈良に誕生したことで、710年からは奈良時代になります。
大宝律令は、奈良時代にも、基本の法律として活躍しました。
大化の改新はいつからいつまで?広い意味では645年から701年だが、天智天皇が亡くなるので、646年の説もある。
大化の改新はいつからいつまで?のことですが、
大化の改新は、蘇我氏を倒して、天皇中心の国家を建て直すことが内容なので、基本的には、
大化の改新は、645年から大宝律令の701年までになります。
しかし、大宝律令の法律完成までに50年の時間がかかったので、(整備する内容が多すぎた。)
大宝律令完成までに、中大兄皇子(天智天皇)も、中臣鎌足も、亡くなりました。
なので、646年に、中大兄皇子は、新しい国づくりでしたいことを宣言したので、

646年ごろまで、という説もあります。
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