今回は、小学生と中学生向けに、聖徳太子について、全部説明をしていきます。
聖徳太子は厩戸皇子とも呼ばれますが、聖徳太子(厩戸皇子)としている教科書が多いので、今回は、聖徳太子と書いていきます。
聖徳太子まとめ。聖徳太子はいつからいつまで?何時代?
聖徳太子の生きた時代についてをまずは説明します。

聖徳太子は、西暦574年から622年の人物です。
生まれた時は、古墳時代の後半でした。
しかし、活躍した時代は飛鳥時代だったので、歴史的には、飛鳥時代の人物になります。
聖徳太子と推古天皇。摂政の意味。
次に、聖徳太子と推古天皇。摂政の意味について説明します。

聖徳太子のおばは天皇で、その叔母は推古天皇。
飛鳥時代の天皇で、日本の歴史では、初めての女性天皇でした。
聖徳太子は、推古天皇の摂政になります。
摂政の意味ですが、
女性、子供が天皇になるときは、それを助ける、補佐する役職の人を摂政と呼んでいました。
聖徳太子は、推古天皇の摂政です。
603年に冠位十二階。内容は、能力で人を優先する。
聖徳太子は、飛鳥時代の603年に冠位十二階をつくります。
これは、それまで、身分から役人を出世させていたのを、身分ではなくて、能力で、出世、役職に就かせる制度。これが、冠位十二階です。

また、役人の位を色で見分けられるようにしました。
一番高い位は紫になりました。
役人が守ることを定めた、十七条の憲法の内容。
飛鳥時代に、聖徳太子は、役人が守ることを定めた、十七条の憲法を作りました。

十七条の憲法の内容は、
・仏教を重んじること
・大切なことはみんなですること
・平和、協力の精神を大切にすること。
そのように、仏教を大切にして、みんなで良い政治、良い国を協力して作っていこうと言うことが、十七条の憲法の内容になっています。
607年から、聖徳太子は遣隋使を送る。遣唐使は送っていない。
飛鳥時代の607年から、聖徳太子は遣隋使を、当時の中国の国であった隋に送っています。

日本の天皇を、
日出る国の天子
と書いた国書を、役人であり、遣隋使として隋に行った小野妹子に持たせたことが有名です。
その国書は、随の当時の皇帝に渡りました。
遣隋使を送った聖徳太子ですが、中国の隋の次の国は唐です。
唐の時代には、聖徳太子は亡くなっていたので、聖徳太子は遣唐使は送ってません。
遣隋使から仏教、儒教、政治を学んだ。
遣隋使を中国の隋に派遣して、遣隋使から、仏教、儒教、政治を日本に取り入れました。
聖徳太子は法隆寺を建てた。
仏教をまなび、仏教を日本に取り入れようと思った聖徳太子は、法隆寺を、現在の奈良県に建てました。

と言うことで、今回は、聖徳太子についてをまとめていきました。
聖徳太子のまとめ画像はこちら。

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