今回は保育士試験の保育原理の主要人物である、赤沢鍾美と、新潟静修学校について説明していきます。
新潟静修学校は日本初の託児所として有名ごま!
日本初の託児所はもともとは私塾だったのです。
ということで、見ていきましょう。
保育士試験の保育原理の主要人物、赤沢鍾美のポイントまとめ
まずは赤沢鍾美と新潟静修学校のポイントを画像にまとめたので見てもらえると嬉しいです。
というわけで、上から説明していこうと思います。
新潟静修学校は日本初の託児所だけど、その前の時代背景も見ていきましょう。
新潟静修学校なんですけど、日本初の託児所ではあるんですけど、その前から子どもを預かるところはありました。けど、託児所と言える状態ではなかったんですね。
1870年頃にはあった子守学校
子守学校は、若い女性も働く時代になったけど、この時代は多産で兄弟が多いので、学校に小さい妹や弟を連れて、おんぶしながら勉強してた子達が、
ゆくゆく、生徒同士で代わる代わる授業中の妹や弟を交代で見ながら、交代で授業をうけたスタイルです。
本来なら授業を受けたい子達が、交代でお互いの兄弟を見守っていたので、全国的にあったとはいえ、子守学校は託児所とは言えないゴマ。
そして、貧困地域の幼稚園。
貧困地域の幼稚園なので、子どもを預かることもあったんですが、経営が難しくなり、良い結果はでていません。
筧雄平の農繁期託児所
新潟静修学校と同じ1890年にできていて、こちらは農繁期に限定されたものです。日本初の託児所とは言われていません。
新潟静修学校に託児所ができるまでの時代背景をみたので、つぎは新潟静修学校について説明します。
新潟静修学校は私塾で赤沢鍾美はその塾長
新潟静修学校ですが、もともとは私塾でした。
私塾は江戸時代からある、吉田松陰とかが有名ですが、学識者が建てる私営の塾のことです。
で、この新潟静修学校も私塾で、赤沢鍾美はそこの塾長でした。
新潟静修学校は、1890年、明治23年です。
なんですけど、、ここでも、生徒が妹や弟を連れてくるってことが起きたんです。
けど、赤沢鍾美のすごいところは、生徒が学業に専念できるように、赤沢鍾美自身や、奥さん、助手さんが妹や弟をみる保育者になったんですね。
都合のある家族の代わりに、専任の保育者が預かるのは託児所の機能ごま!
ということで、新潟静修学校は私塾だったんですけど、子どもを預かるところにもなったんです。
日本初の託児所になった理由は、ちゃんと保育者がいて、家族からの依頼で子どもを預かったこと。
その後、新潟静修学校は仕事をしている保護者の子どもも預かるようになりました。
もちろん、保育者もいますし、保護者の依頼の上で子どもを預かっています。
これにより、新潟静修学校は日本初の託児所と言われることになりました。
その後、新潟静修学校は改名します。
新潟静修学校の託児所は1890年からだったんですけど、後に改名します。
明治41年 1908年に守狐扶独幼稚児保護会(しゅこふどくようちじほごかい)という名前になりました。
それまでは新潟静修学校のなかで保育者が子どもを預かってるって状態で、託児所としての名前がなかったゴマ。
そして、保護者から託児所の保育料もとるようになったんですが、それは1銭で、当時の時代では安く、かつ経営、環境も安定していることから人気の託児所だったという記録があります。
今回の記事をそのまま動画で説明したものがこちらです。
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